易往山 浄勝寺ブログ

岐阜県 揖斐郡 大野町にある、浄土真宗 本願寺派のお寺「浄勝寺」の紹介です。

寺報:いっしょに学ぶ日曜日

寺報表紙

 【住 職 法 話】わが子には必死になる心情・イッシジ

 浄勝寺では毎週日曜日の朝、大人も子供もいっしょになって仏教の勉強をしています。「にちよう仏教学校」です。

 朝の8時から始まり、雑巾(ぞうきん)がけ10分、お正信偈(しょうしんげ)20分、お領解(りょうげ)文(もん)をとなえて、『こどもブッダのことば』一ページをかわりばんこにゆっくり読み、9時に解散(かいさん)いたします。

   子どもと大人の仏教学校

 九月の第二日曜日は、こんなふうでした。
 使っているのは、 齋藤(さいとう) 孝(たかし):監(かん)修(しゅう)、 日本図書センター:出版の『子ども ブッダのことば』です。
 右の小さい字のところは、オマケなのでしょうが、本堂ではここも読みます。とてもむつかしい言い方ですから、なるべくゆっくりと、たどたどしく読んでもらうようにお願いしています。

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 <己(おの)が独(ひと)り子(ご)>からして、むつかしいですね。皆さんはふつう、<己(おの)が>という言いかたはしませんし、<独(ひと)り子(ご)>という字もあまり使わないと思います。

 古代のインドの言葉から訳(やく)された中村元(なかむらげん)先生は大学教授でしたから、こういう硬(かた)い文章になってしまうのでしょう。ふつうに言えば、<じぶんが生んだ一人の子を母親は命がけで守るように>ということなんです。
 <一切(いっさい)の生きとし生けるものどもに> も、かんたんに <一切の生きとし生けるものに>と言うだけで、じゅうぶんですね。

     わが子へのこころ、無量(むりょう)のこころ

 さいごの <無量(むりょう)の(慈(いつく)しみの)こころ> も、わかりにくいですね。でも、「無量のこころ」とだけ書いてあった場合を想像してみてください。「何のことかしら?」という気がするでしょう。しかし、慈しみ(かわいい、かわいそうという気持ち)の心といえば多少は分るでしょう。

 あらゆる生きものに対して同じように、平等に愛情を降り注(そそ)ぎなさいよというのが主旨(しゅし)ですから、どんな生きものも「心」を持っているのですよということ。すなわち心は無量にあると思うべきなのです。ハートがいくつも並んでいるような絵のイメージですね。

 自分の大事な子どもがピンチに、危機(きき)に出くわしたとき、苦しい立場に追い込まれて悩んでいるとき、親はまるで自分が苦しんでいるみたいに、いや自分が死んだほうがマシだくらいに、つらく感じるものです。しかしこの心情(しんじょう)は、わが子に限(かぎ)られていて、他人(よそ)の子の話を聞かされても同じようには悲痛(ひつう)に感じられないのではないでしょうか。ふしぎなことです。

 他人の苦しみが理解できないにしても、せめて「そういう苦しみはどういう感じなのだろう」と、想像する訓練(くんれん)をするようにしましょう。他人の苦しみを想像で味わってみるのも、とても尊い心の修行です

  仏様の尊さ、生きものすべてに対して一子地の境地

 仏さまは、だれに対しても、どんな生きものに対しても、わが子と同様にかわいそうに思うこころを起しなさいとおっしゃるのです。それを「一子地(いっしじ)」という境地(きょうち)といいます。阿弥陀如来(にょらい)のおこころのことです。イッシジ、直感的(ちょっかんてき)に分かりやすい仏教語ですね。殺生(せっしょう)の戒(いまし)めです。

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)のご和讃(わさん)にも出てきます。 「平等(びょうどう)心(しん)をうるときを 一子地となづけたり 一子地(いっしじ)は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし」(諸(しょ)経(きょう)のこころによりて)

 やっぱり、安養(あんにょう)の世界、すなわち浄土(じょうど)に往生(おうじょう)しなければ体験できない(覚(さと)れない)、究極(きゅうきょく)の境地(きょうち)なんですね。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ……  よろしければあなたも、日曜日にお寺にお出かけください。 
  【令和二年九月十八日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】

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寺報 №179 お浄土になぜ往かねばならないの

2020 盆会

【住 職 法 話】お浄土に行く気があるのですか

 ご門徒(もんと)さんだといっても、私を受け入れて下さり、多少の敬意(けいい)をいだいておられる方々にしか、仏教のお話は成立するものではありません。

 浄土真宗という仏教は、皆さんがなんとなく「仏教って、こんな感じ」と思っておられることとまったく違(ちが)っていて、昔の言葉で言うと関所、いくつものチェックポイントをクリアしなければ「仏さまの光の世界」にたどり着(つ)けるものではありません。親鸞聖人(しんらんしょうにん)の仏教は「聞けば分かる。読めば分かる。」といった、うわっつらの仏教ではないのです。すこし自己点検をしてみましょう。

誤解の① 難行道(なんぎょうどう)こそが仏教だという誤解。

 「お経を読むことは出来るようになりましたが、お念仏を口でとなえることは、まだまだ出来ません。」――こう言われる方が多いですね。意外かもしれませんが、七高僧(しちこうそう)の方々、龍樹(りゅうじゅ)大士(だいじ)や天親菩薩(てんじんぼさつ)のおすすめなさったのは苦しい道(難行道(なんぎょうどう))ではなくて易(やさ)しい方の道なのです。

 でも、私たちは簡単な道(易行道(いぎょうどう))では物足りなくて、反対の難しい道のほうに魅(ひ)きつけられる性質があるようです。お正信偈(しょうしんげ)やお三部経をすらすら上げることより、ただお念仏が素直(すなお)にとなえられることのほうが尊(とうと)いのに…。エリート志向があるのでしょうか。

誤解の② 法事でお寺さんにお経を上げてもらったり、いっしょにお正信偈(しょうしんげ)を読んだりお念仏をしているから、たぶん浄土に往生できるはずだという、好意の誤解。

 「お寺さんとちゃんと付き合って法事もお葬式もしてもらっているから。」――言いづらいのですが、これも考え直(なお)された方がいいのです。
 「信心(しんじん)正因(しょういん)」といって、信心という阿弥陀様のお心(こころ)を了(りょう)解(かい)した人だけが行けるのです。阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の本願のお力(パワー)の不思議さを味(あじ)わえる人しか、そのお力をあてにしませんから当然でしょう。

 仏さまのお力の由来(ゆらい)については、身近(みじか)なところでは、お正信偈「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ) 因位時(いんにじ)」からに書いてあります。そのつもりで文字を読み、意味を考え、お説教(せっきょう)をきちんと聞きましょう。

誤解の③ 「死ねばだれでも仏になれるだろう。」という安易(あんい)な誤解。

 こういう方も多いです。よく考えてみて下さい、仏になりたい人がお浄土に行って、成仏するのです。仏さまに関心もなかった人間がどうやってお浄土に行くのですか?

 これも七高僧のおひとり、道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)のご本の中に「倒木(とうぼく)の譬(たと)え」ということが出ています(安楽集 第二大門 広施問答5)
 生きている間に西に向いて傾いて生えていた樹(き)は、老木(ろうぼく)となって倒れたら西を指(さ)します。東を向いて生えていた樹(き)は倒れたら東を指(さ)します。西はお浄土(じょうど)、東とは流転(るてん)・三悪道(さんまくどう)の来世(らいせ)世界です。

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 「この世の結果には必ずそれ相応(そうおう)の過去世(かこせ)の原因がある。」「この世でしたこと、思ったこと、言ったことは必ず次の世で実(み)を結(むす)ぶ。」という三世(さんぜ)因果(いんが)の理(り)があるのです。

 現代人はこれに目をつむり、耳をふさいで、「死んだあとなんか、知るものか。俺(おれ)とは関係ない」とうそぶいているのですが、「自分の人生は自分の幸せのため。自分の死後には責任なし。死んだらゼロ。」という気持ちこそ、仏教で無明(むみょう)といわれる人間の根本悪(こんぽんあく)なのです。現代では、こんな気持ちの方々が次々と死んでみな不成仏霊(ふじょうぶつれい)、悪霊(あくれい)となって、そのオーラがあの世からこの世を汚(よご)し狂わせているのです。

この世とあの世とにわたって

 お浄土になぜ往(い)かねばならないのか、人間にとって成仏する意義とは何かについて、親鸞聖人の浄土和讃(じょうどわさん)には、はっきりと歌われてあります。

安楽(あんらく)浄土に至(いた)る人   
五濁悪世(ごじょくあくせ)に還(かえ)りては  
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて  
利益(りやく)衆生(しゅじょう)は
きわもなし
。」 

 
 お浄土は成仏しに行く世界です。成仏したい人が行く所です。成仏するのは、この世に還(かえ)って来る準備のためなのです。もどってくるのは、お釈迦(しゃか)様のように、どの人をも成仏の道に向かわせ、平安を与える仕事が残っているからなのです。

 私たちの人生は、すべてやり残しがある、未完成に終わることをよく見抜いておられます。それをこの世とあの世とにわたって完全な形で完成させてやりたいという、阿弥陀様の深いお慈悲(じひ)であります。仏教はかんたんではありません。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ  【令和二年 八月十日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】 


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オンライン法話?―往生する人、しない人

 先日の無縁経で話しました住職法話を、公開します。

 お話の構想を固めず、参詣の皆さまの顔ぶれを見て、人数を見ながら進めましたため、話の進行順序が予定とは違ってしまいました。

 僧侶としても語りにくい、心苦しいテーマの内容なのですが、それを承知の上で、いちど多くの人とごいっしょに考えてみたかったのです。

 ゆっくりと考えながら話しましたので、思いのほか長時間となりました、パソコンやスマホで見るには短い方が楽ですから、全体を4部に分けて、少々カットもして、ご覧に入れます。

浄勝寺無縁経 住職法話 その①



浄勝寺無縁経 住職法話 その②



浄勝寺無縁経 住職法話 その③



浄勝寺無縁経 住職法話 その④



 その④は、寺報をもとに口演したものです。このブログ記事のひとつ前に出してありますので、合わせて読み直してみていただけば幸いです。

 終わってから「むつかしい…」と言われた方もあります。しかし、重要なテーマです。高校生のオンライン授業を見習って、私たちもこの動画で勉強してみましょう。


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寺報№177・仏さまは一切群生海の心

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            №178

【住 職 法 話】仏さまは一切群生海のこころ

自分の親の供養はだれがやるのか

 子どもの数が少なくなり、家族どうしの助けあい、さらには両親のご供養(くよう)にとまどわれる方も多くなってきました。
最近ご相談いただいたケースでは、奥様も一人っ子、ご主人も一人っ子の場合、奥様の親の供養はどのようにしたらいいのか、というお悩みでした。これから増(ふ)えてくる問題ですね。

 昔からの通念では、家は存続(そんぞく)すべし、かならず跡取(あとと)りを取ってその家の先祖供養を絶(た)やすなということでした。仏教でもそれを前提にして、いわば『供養のルール』というものが決まっていたのだと思います。しかし、現在の法律はすでにこの考えに沿(そ)ったものではありませんから、古い『供養のルール』で考えても、しっくりした答えは出て来ないと思います。

新しい供養(くよう)のルール

 今から十年ほど前にも、よく似た相談を受けたことがあります。その奥様はひとりぼっちになられた母親を引き取っていっしょに住んでおられたのですが、亡(な)くなられた後、「どうやって供養したらええのかね。お内仏(ないぶつ)にいっしょに入れたら、いかんでしょうし…」とお困りでした。

 その在所のお母さんの家は禅宗(ぜんしゅう)、この奥様は浄土真宗(じょうどしんしゅう)。もちろん姓(せい)もちがいます。
 「とうとう現れてきた問題。新しい供養のルールが待たれている…」と感じました。しばらく考えさせてもらってから、ゆっくりお答えしました。
 「あなたの他(ほか)に供養できる近親者(きんしんしゃ)はいないのですから、これまでのお世話の延長(えんちょう)で、あなたが供養してあげるといいですね。供養することは、自分が仏さまに近づくご縁(えん)なんですから。」

 「昔なら、『小型でいいから禅宗のお仏壇(ぶつだん)を求(もと)めて、ご主人の家のお参りとは別に、あなた個人で供養してあげなさい』、と言われたと思いますが、それは良くないと思います。

 ひとつ屋根の下に別の宗旨(しゅうし)の仏様をまつるのは、住宅事情の無理(むり)も生じますし、あなた自身の心にとっても、不健康だと思います。
 もちろんご主人がそれを受け入れて下さればの話ですが、できればお母さんの法名(ほうみょう)位牌(いはい)をご主人の、現在のお内仏(ないぶつ)にいっしょに入れて、みんなまとめてご供養をなさるのがいいと思います。」

 「仏さまというのは『慈悲(じひ)』のすがたのことです。他人を包(つつ)みこむ気持ちのことなんです。浄土真宗のあの世は、心広いお浄土(じょうど)の世界です。姓(せい)が違(ちが)っても先祖が違(ちが)っても、お互いこの世で深いご縁(えん)を結んだ人間どうし、この世での別(わ)けへだては捨(す)てて、同じ仏様のさとりの世界に行きましょう、くらいのおおらかな気持ちが出て来ないようでは、お内仏を拝んできた意味がないでしょう。」

    あの世でケンカする?

 しかしここで、根深(ねぶか)い質問が出ました。「先祖(せんぞ)が違った者どうしをいっしょの仏壇に入れたら、あの世でケンカするって世間では言いませんか?」と。

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 「よく言われますね。しかし、あの世まで先祖と姓(せい)を、区別して持っていくのですか? 仏様を拝(おが)んでも、仏教の信仰(教え)が何もない、にせ仏教の人の言い方ですよ。そんなあの世は仏様の世界ではなく、三(さん)悪道(まくどう)という区別だらけの世界・迷(まよ)いの世界なんです。成仏(じょうぶつ)できないあの世のことですよ。

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は仏様のことを『…ほんとうはナ、色も無いし形もない、ワシラでは想像のしようもないようなお方ナンダゾ。一切(いっさい)群生(ぐんじょう)海(かい)の心ナンダヨ。』とおっしゃってみえます。一切(いっさい)の人々を包(つつ)みこむ、海のような大きな気持ちのことなんです。仏さまは仏像ではないのですね。 

 これまでお仏壇(ぶつだん)にお参りしていてもお寺へ行っても、やっぱり《オマエノ家の人間といっしょはイヤだ》と言うような狭(せま)い心持ちしか持てないのなら、仏さまのこころ・慈悲(じひ)の心はまだ受け取っていませんね。
 広い広い仏様の世界に行かれたご先祖、という受(う)け止(と)めかたが出来るかできないか、自分の信仰(しんこう)心(しん)を確かめて、ご主人ともよく話し合ってみて下さい。」とお答えしました。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ  【令和二年 六月十八日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】 


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寺報№177・人生の生も死も丸ごと飾らねば…

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【住 職 法 話】 人生の生も死も、丸ごと飾らねば…

      世のもろびとよ
 お葬式を取り巻く状況はずいぶん変わりましたが、今でもやはり出棺(しゅっかん)勤行(ごんぎょう)というおつとめから始められています。そのとき唱(とな)える文句は「道俗 時衆等(どうぞくじしゅうとう) 各発 無上心(かくほつむじょうしん)…」です。

 善導大師(ぜんどうだいし)の作られた詩句で、「道俗の、現代の皆さんよ、まずは自分も仏にならねばならないという理想を持ってくださいよ。」という呼びかけから始まっています。

 生きている人すべてに「世のもろびとよ」と声をかける、堂々たる呼びかけに格調がありますね。中国の唐代(とうだい)におられた善導大師が書かれた『観経疏(かんぎょうしょ)』という書物のいちばん最初です。

 現代でもそうですが、唐代の人たちも自分の人生に理想(美しく飾りたい。成仏したいという覚悟)なんか持っていないし、死ぬこともずっと先の話だと、安気(あんき)に思っていたのでしょう。

 続いて「生死 甚難厭(しょうじじんなんねん) 仏法 復 難欣(ぶっぽうぶなんごん)…」。生死(しょうじ)とは、迷いのことです。「迷いの世界からおさらばする気は毛頭ないし、仏様の教えを聞く気もちっとも起こらないが、それが悪いのか?」と思っているわれわれのホンネを見抜いておられます。不可能なのに不老(ふろう)や不死を夢見る、人間のあさましさ、執着の深さは千年たっても、変りませんね。

     若い者に負担をかけたくない…という心情

 つい先だって、七十歳代で急死された男性のお葬式にお参りしました。ご門徒さんの新家(あらや)さん(ご兄弟)ですから、初めての顔合わせです。

 「お葬式はたしかに執行いたしますが、初七日(しょなぬか)、二七日(ふたなぬか)、とお参りに行くのですから、お仏壇を用意してくださいね。どんな小さなものでも結構ですから。」と念(ねん)を押しましたら、意外なご返事。

 「それは困ります。まさかもう死ぬとは主人もワタシもきのうまで少しも考えていませんでした。家の中も、二人だけでしたから散らかっていて、ごえんさんに入ってもらえるような状態ではないのです。それに仏壇なんか買ったら、息子たちに“重荷(おもに)”を背負わせることになるので、いやなんです。」とはっきりおっしゃるのです。―ー弱りました。

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     今どきの高齢者の「気がきく」という弱点

 まだ死ぬような気がしないし、死んで行く先のこと(人生を丸ごと飾らねばという理想。成仏)までは考えたこともない……という前半は、善導大師の予言通りです。仏教の精神にふれないまま年を取ってしまった人が多いのです。(そうやって、不成仏霊(ふじょうぶつれい)になってゆくのです…。)

 しかし最後の、「若いものに負担をかけたくない。」ということばだけは、いかにも団塊(だんかい)の世代らしい、現代の心情)がうかがえました。

 以前の親の世代と違って、今の六十代・七十代の親たちは、息子や娘たちが喜ばないだろうことは、本人から頼まれる先にこちらから気を遣(つか)って、前もって処理してしまう傾向があるのです。

 苦労を子供たちにさせては可哀そうだという溺愛(できあい)の一種だと思います。戦中・戦後の昭和世代に共通する盲点(もうてん)であり弱点です。
 戦争前の世代には、若い者がいやがろうと嫌(きら)われようと、「この先必(かなら)ず本人のためになるはずだ。」という、苦労もためになるという信念がありました。

       どちらがキツイのでしょうか?

 そこで私は思い切って申しました。「長男でなくて気楽な新家暮(あらやぐら)しをしていても、いつか自分が亡くなったら、その時点で本家(ほんや)になるのですよ。事態(じたい)が変わるのです、切り替える時なんです。

 息子さんたちの家族に重荷になる、迷惑がかかるとおっしゃいますが、奥様が今お仏壇を家に入れなかったら、次はあなたを亡くした時点で、息子さんたちが新(あら)たに仏壇を家に入れることになりますよ。

 七十代のあなたが新しい仏壇に感じる抵抗(ていこう)と、もっと若い人たちが買うときに感じる抵抗と、どちらが心理的にキツイでしょうか。お母さんが使っていた仏壇を入れるのなら、それを受け継ぐだけですから、すんなり行くものなんですよ。もういちど考えてみてください。」と。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ 
 【令和二年 三月十三日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】 


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