易往山 浄勝寺ブログ

岐阜県 揖斐郡 大野町にある、浄土真宗 本願寺派のお寺「浄勝寺」の紹介です。

9月24日 秋彼岸永代経 真宗の修行

2019秋彼岸会

 【住 職 法 話】他力・仏力をいただくとは
      
  こうすればさとれる、八正道
 仏教といえばお釈迦さまの教えで、最初に習うのが「八正道」(はっしょうどう)です。阿弥陀経には「八聖道分(はっしょうどうぶん)」と出ています。これが実行できれば、生きながら仏さまですよ。

 一には正見 (ものを正しく見ること)…貪欲と布施心を比べて見、怒りと和らぎを比べ見、この世と彼土を見、偽善者と真心の人を比較して見たりして自ら覚り、自ら証し、自ら知り、自ら行う気持ち。
 二には正思惟 (物を正しく考えること)…考えるときは欲心なく害心なく怒りなく。
 三には正語 (正しく語ること)…両舌、悪口、妄語、綺語を言わない。
 四には正業 (正しく活動すること)…殺生、邪淫、盗みなどをしない。
 五には正命 (清らかな正しい生活。)…命は使命、正しい職業に就いて生活する。
 六には正精進 (道を求めること。:正しく努力すること。)
 七には正念 (正しい憶念。四諦の道理をつねに心に留めている。)…正しく記憶すること。
 八には正定 (正しく心を落ち付けて安心すること)…人間世界の不善の法を離れる精神。

 この八正道を自分の力で実行するのが仏教だと教えるのが、自力・聖道門です。出来なかったら地獄行きは当然です。あなたは、いかがでしょうか? 「大事な事ばかりじゃないか。だれもが守らねばならないものだ。」と意欲満々なタイプもおられるかも知れません。

  無理な人には他の方法で

 しかしまた、「じつにごもっともですが、とてもじゃないが自分には無理。」という人のために、七高僧の方たちが苦心のすえ見つけ出された仏教が浄土門・他力の教えです。他の方法によって、容易に得させてもらえる道、信心の道。浄土真宗はこの他力・浄土門の宗教なのです。

 信心をいただくことの大切さ
 この方法は、もっぱらそういう人間を前提にうち建てられた阿弥陀如来の不可思議な、金剛のおこころ(まごころ。信心といいます)のお力をわが身にいただくことによって、気ままや、良カッコしいの悪い癖や、自分さえ儲かればいいという欲から離れることが出来るのです。これを信心をいただくといいます。マゴコロが伝染(うつ)って来るのです

 われわれの煩悩は大きく三つ、とされ――

 ①貪(ちょっとでも多いほうがいい、安いほうがいい、トクするほうがいい)
 ②瞋(自分の損は他人のせいだ、わしの考えとちがうなんてわしの敵だ!)
 ③痴(自分の考えのほかは意味がわからない、せまい了見、冷静に筋道がたどれない)や五欲というものは、現代のように仏教から遠ざかっている人が多い時代では、「あたりまえ、何が悪い。それなしでは生きて行けん」と一蹴されてしまうかも知れません。
すでに人間が三毒煩悩に害されてしまって、(お釈迦さまの教えもすばらしいなぁ)などと感じる純粋な心は亡びてしまっているひともあるでしょうね。世も末の時代、末代なのですから。

 心の中が荒れてしまった人間が多数になれば、無反省な個人の悪業は増えるいっぽうで、犯罪も多発し、「恥の文化」も消えさり、政治は堕落し、国家も危うくなります。来世どころではありません。この世から修羅道、地獄道がはじまっているのです。

  浄土真宗の「修行
 個人の知らず知らずの悪業(あくごう)の積み重ね、社会の濁りゆく大きな流れ、すべては地獄へ向かっていますが、それを避けるためには仏さまの力を借りて信心を得ること以外にはありません。

 それは御文章にあるように、『信心獲得(ぎゃくとく)すというは、第十八の願を心得るなり』の通りなのですが、第十八の願とは仏さまのお心なのですから、目で見えるものではありません。受けとるこちらの心を整理し鋭敏にして、いわば心眼をきたえる必要があるでしょう。

 このとき便利なのが八正道の教えです。仏教の正門である八正道の教えを鏡にして自分を内省することから始ります。日ごろこの鏡を思い出し思い出しして暮していきますと、ふしぎなことに自分が虚仮不実(コケフジツ:いいかげん。その場かぎり)であること、罪悪(なんでもあたりまえに思う心。執着心)が深重(じんじゅう)の身であることが見えて来るようになります。これが浄土真宗の「修行」ではないでしょうか

 わたしの本心を救ってくださるひと
 この修行が進むと、生活を養うために、金、地位、権勢、愛欲などに執着するじぶんの心が、良く解るようになります。この執着心が巨大化して、如来様から来ている信心の道をふさいでいるのでした。

 反対に、仏さまに近づきたいという純粋な心、できれば信心を得たいと思っている本心はほとんど滅びて亡者状態になっているのです。私たちのたましいが心の奥底で泣いているのが見える気がしませんか。

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 ご法事などで私はお経の前に、「お念仏をいただきましょう!」と呼びかけることが多いのですが、なかなか声に出してくださらない方があります。「出したくても、出しにくい…」のは、やはり、その方の本音、たましいが亡者になっているからだと思います。 

 この本心を救ってくれる人、その要求に応じてくださるのが弥陀の本願です。この弱い魂をお目当てに呼びかけてくださるのが、弥陀の本願というものです。
『汝(なんじ)、一心に正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護(まも)らん』というお声であります。これを本願招喚の勅命(ちょくめい)と申します。

 この「魂の悩みを見つめて念仏せよ」という声が、苦しんでいる心魂・本心に到達すると本心が力をもらって目覚めて生き返り、ナモアミダブツと喜びが出るのです。信心はここに開いて来ます。もちろん実際には、そのとき善き人(善知識)という先覚者の声が耳に聞こえているものですが―。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ【令和元年 九月十八日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】 


《おことわり》 十代から捨て身の求道と失敗をつづけ、全国の在家信者の家々で法座と座談を重ねつつ、体験した話を雑誌『慈悲の国』で毎月発表して行かれた僧侶が大正、昭和におられました。これはその高橋常雄師が昭和4年(1929)同誌9月号「連載 信仰座談」に発表された座談をもとに、私が領解したものです。合掌

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寺報: わけもわからないまま終っていいのか

表紙 盆会寺報

【住 職 法 話】 仏さまは人生を照らして

わけもわからないまま

 前回では、この世の迷(まよ)いの世界での心の動きを図式化した、六道(ろくどう)のお話をご紹介しました。
 その頂点(ちょうてん)に立つのが「天(てん)」という境涯(きょうがい)です。これこそがひとから笑われても後(うし)ろ指を指されても、行った者勝ちと言わないばかりに突進して行く、みんなの「暗黙の目標」であります。
 学校という所でもほぼそういう考えを吹き込みます(洗脳)から、子どもの時から迷(まよ)いの世界しかこの世にないものだと思いこんで、競争で努力を重ねて大人になって行き、めんどうの少ない、楽(らく)な生活を目指(めざ)します。自分が達成できなかった人は子どもに期待(きたい)しますから、次の代(だい)でも欲望が再生産(さいせいさん)されて、六道(ろくどう)はみごとに輪廻(りんね)して行きます。六道輪廻の時代です。


修羅とはコンプレックス

 ①地獄(じごく)という争いの世界は、相手が落ちるか自分が落されるかふたつに一つという競争の勝者が、自分が目当(めあ)てとした天にあがるという構造の、いちばん基盤(きばん)(ベース)です。
 その成長を通して人間が変質して行ったのが ②餓鬼(がき)です。豊かであっても人並み以上の出費は一切(いっさい)したくないという、細かい計算が得意な、ケチな性分(しょうぶん)、すなわち無慈悲な性格となります。
 ③畜生(ちくしょう)は自分の立場が少しでも悪くならないように上の人に逆(さか)らわず身を処(しょ)してゆく態度が自然と身についてしまった姿です。

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 そうしますと ④修羅(しゅら)とは、勝者になる前の不安定な心情のことでしょう。絶えずライバルのことが気にかかり、内心はコンプレックスの塊(かたま)りです。周囲(まわり)と比べるというクセが抜けないのです。 
 そんなストレスのただなかで、「自分」の才能の無さにも気が付かず、反対に、持って生まれてきた「自分」の良さも忘れてよそばかり見て来た、その軽薄な生き物(もの)とはだれのことでしょう? 

並みの人間である自分を愛せるのか

 イタリアと日本で暮らしておられる ヤマザキマリ さんというマンガ家が、新聞紙上(しじょう)で人生相談を受けておられます。先日めずらしい相談をなさったのは、就職を控(ひか)えた二十一歳の男性でした。(8月6日火曜日付(づけ)毎日新聞) 「並の人間であることが身に染(し)みて分かった。劣等感(れっとうかん)とプライドを捨て、自分を愛して前に進むにはどうしたらよいですか。」と、まさに修羅(しゅら)から抜け出したいという、 ⑤「人(間)」らしい、痛ましいご相談でした。

 どうやって自分を愛せるのかという、きわめて仏教的な問題ですね。 

 マリさんは、具体的に答えられました。「私はかつてシリアという国に暮らしていました。ここは内戦がつづいていて、何人かの友人とはいまだに連絡がつきません。生きていてほしいと願うばかり(中略)生まれてきたからには、何かを成(な)し遂(と)げなければならない、成功して親を喜ばせたい…(中略)人間ばかりが自分は並(なみ)だとか、優(すぐ)れているとか、劣(おと)っているといった評価により、授(さず)かった命の価値(かち)を決めようとする。(中略 でも)全て(すべ)が思い通りで浮(う)かれて生きていると、いざという時に太刀打(たちう)ちできなくなる。(後略)」―広い視野に立ったていねいなご回答(かいとう)でした。

わけのわからないままで人生を終わらないため、仏さまのしんせつ

 みなさんが、いつもお勤(つと)めをなさる『お正信偈(しょうしんげ)』の和讃(わさん)で六首めに、

仏光(ぶっこう)照曜(しょうよう)最第一(さいだいいち) 光炎(こうえん)王仏(のうぶつ)となづけたり 三塗(さんづ)の黒闇(こくあん)ひらくなり 

  ⑥天(てん) を目指(めざ)す六道(ろくどう)人生こそ万人(ばんにん)の歩(あゆ)みだという考えじたいが、三塗の黒闇(こくあん)(地獄・餓鬼・畜生)に閉(と)ざされている証拠なのですよと教えておられるのです。流転(るてん)輪廻(りんね)する生(せい)から自由になろうと、仏教は続いてきたのです。

 人生は目立つ必要はない

 すでに2千年以上前、お釈迦(しゃか)さまは『スッタニパータ』(その第十二経・渡辺(わたなべ)照宏(しょうこう)訳(やく))で、
 744 苦悩(くのう)が発生するのは、すべて功(こう)をあせることを機縁(きえん)とする。功をあせることを終滅(しゅうめつ)すれば、苦悩は発生しない。 750 およそ苦悩(が発生するのは、すべて動揺(どうよう)を機縁(きえん)とする。

 むつかしいことばですね。けれど何度も読んでみれば、苦(く)というのは、あせっているから。目立たなければいけないと思っているからだ、とわかりますね。若い時をふり返ってみましょう。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ 【令和元年 八月八日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】 

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お墓は子どもたちの負担になるばかり?

 ちょっと前になりますが、去る5月9日、岐阜市加納にあるりっぱなお寺でお話をする機会を恵まれました。

 そこでは2席、すなわち50分くらいずつ2回に分けて、『あなたはもう、仏様にお会いしましたか』というお話をしてまいりました。

 くわしくはそのお寺さんのホームページで⇒ 河野 善超寺 善超寺通信31号
 YouTube「善超寺」で 前半は 第15回真宗講座(2019年)
 YouTube「善超寺」で後半は 第15回真宗講座(2019年)〈後半〉 聞くことが出来ます。

 そのとき終りがけに、お墓の意味を考えさせられた実話をちょっと、紹介させてもらいました。

 墓じまいなどという、不気味な言葉がマスコミで横行していますが、短い視野と浅はかな親切(聖道の慈悲)というおのれの知恵と心づかいにおぼれないように、この短いエピソードを味わっていただきたいと思い、その個所だけを切り出してみました。
 わずか4分ほどです。ぜひお聞きください。

ユーチューブへ ⇒ 墓じまいをする前に





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無縁経―ごえんさんの法話記録

 住職みずから、しゃしゃり出て法話をした、6月29日(土)の無縁経法要でしたが、いかがでしたでしょうか。

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 話した私の側からみれば、「同級生がずらっと並んでいるのは、独特のプレッシャーがあるなぁ」ということでした。責任感を感じます。
 
 ほんの少しですが、当日のお説教の一部を、どなたも観れるように新作動画として作っておきました。
 住職の字のまちがいがあったところです。15分間。

 こちら→ 無縁経―六道のおしえ



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法話の続き―他人のことは許せませんが、

 無縁経法座の当日、ご参詣くださったかたがたへのお礼状です。

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 後から当日の録音を聞き直しても、いま一歩、はっきり言えてなかったと思ったので、原稿(寺報)をもっと突き詰めてみようと、一日考えてみましたら、こうなりました。くどいようですが、お説教の続きです。

 わたし流の「二種深信」の新翻訳・解釈になりそうです。

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