易往山 浄勝寺ブログ

岐阜県 揖斐郡 大野町にある、浄土真宗 本願寺派のお寺「浄勝寺」の紹介です。

ホームページが出来ました

このたび、浄勝寺ホームページができました。是非一度ご覧ください!

浄勝寺ホームページ

こんな感じ・・・↓
HPの感じ


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平成28年1月14,15,16日        宗祖報恩講 寺報 No.156

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   【住 職 法 話 】  人生はお念仏の旅 ②
     私が出会ったお念仏のひと―つづき

 前回(ぜんかい)は、八十歳にして、埼玉県(さいたまけん)の南浦和(みなみうらわ)から列車(れっしゃ)を乗(の)り継(つ)ぎながら、うちのお寺へ3度もお話に来ていただいた念(ねん)仏者(ぶつしゃ)を御紹介(ごしょうかい)しました。

 明治43年に三重県で生れ、十数年前に享年(きょうねん)八十七歳で亡(な)くなられた、児玉里江(こだまさとえ)さんです。このかたは生涯(しょうがい)仏法(ぶっぽう)を大事(だいじ)にして、出会(であ)う人、出会う人にお念仏の有難(ありがた)さを伝(つた)えようとされていました。

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   わけが分かってからお念仏?

 児玉さんは七十歳ころ、それまでの人生をふり返(かえ)って、いちばん大事(だいじ)なことを語(かた)られたことがあります。
「高橋先生には娘の時分(じぶん)からお世話(せわ)になっております。お説教(せっきょう)で私に言うて下さるのは、いつでも念仏せよ、念仏せよでした。

 念仏するわけが分かってからしようと思いましたが、なかなか出来ませんでした。そして仏教の講習会(こうしゅうかい)に出まして、皆さんに誘(さそ)われて口先(くちさき)念仏(ねんぶつ)をしているうちに、一番最初(いちばんさいしょ)に分かりましたのはネ、ソノ、ご恩知(おんし)らずということでした。

 それまでは親がするのは当(あた)り前じゃ、兄がするのも当(あた)り前じゃと思っていました。フッと自分は親に対(たい)してどうじゃろうか、兄に対(たい)してどうじゃろうか…と。そしたら、まったく何(な)ンにもしてませんでしょう―本当(ほんとう)に驚(おどろ)きましたね。」
お念仏することで、阿弥陀(あみだ)様(さま)の信心(しんじん)、まごころがこちらに乗(の)り移(うつ)って来(く)るということがよくわかると思います。

    目の見えない主人にみちびかれて

 私がどうして児玉さんと知り合えたかといいますと、七十歳の時にご自分で書かれた手記(しゅき)が、雑(ざっ)誌(し)に載(の)り、さらに5年後、書籍(しょせき)としても出版(しゅっぱん)されたからです。(昭和55年/1980年)
 その手記(しゅき)を書かれたお心は、本のいちばん最初(さいしょ)に書いてあります。

「目の見えない人と結婚して二十三年間の夫婦生活を通(とお)して見た、盲人(もうじん)である良人(おっと)との一生をふりかえって書いてみます」と。ご主人の正之(まさゆき)さんは昭和三十一年、四十四才で急逝(きゅうせい)されました。

 今日は、ご主人と結婚されるころのお話をいたします。皆さんもご自分のご結婚の頃(ころ)のいきさつを思い出して聞いてくださいね。

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      自分がいやになって、仏教と出会う


 児玉、旧姓(きゅうせい)は谷口(たにぐち)里江(さとえ)さんは村の小学校を出たらすぐに、三重県津市(つし)にあった東洋紡(とうようぼう)の紡績(ぼうせき)工場に女工(じょこう)さんとして入(はい)られました。一日十二時間労働(ろうどう)、お給料(きゅうりょう)の3分の2は故郷(ふるさと)の家のために仕送(しおく)りされていました。

 18才の頃(ころ)、大阪に嫁(とつ)いでおられたお姉(ねえ)さんの家に呼(よ)ばれて、和裁(わさい)仕事を手伝いながら同居(どうきょ)をされたのですが、姉妹(きょうだい)であってもぶつかることが多く、すぐ口争(くちあらそ)いが起(お)きたようです。その口争(くちあらそ)いをする自分がいやで、そのことがきっかけ、縁(えん)になって、そのとき毎月読んでおられた仏教(ぶっきょう)雑誌(ざっし)『慈悲(じひ)の国(くに)』の発行(はっこう)者(しゃ)である高橋(たかはし)常(つね)雄(お)先生というお坊(ぼう)さんのお話を、近くのお寺へ聞きに出かけられました。

 そこで聞かれたのが、母親の乳首(ちくび)を口にふくまなければ幼児(ようじ)の胃袋(いぶくろ)には栄養(えいよう)が届(とど)かない、というお説教(せっきょう)でした。如来(にょらい)様(さま)の法力(ほうりき)も、口で称(とな)える念仏(ねんぶつ)を通(とお)さなければ私たちには届(とど)かない。人間が本来(ほんらい)持っているマゴコロはやせ細(ほそ)って立ち上がる力も無いので、いつも煩悩(ぼんのう)に負けては泣(な)いている。この心(こころ)を救(すく)ってやりたいというお慈悲(じひ)が弥陀(みだ)の本願(ほんがん)です……と。

 このときの感激(かんげき)とよろこびの体験から、このすばらしい仏教を一人でもたくさんの若い人に知ってもらうにはどうしたらいいかと考えられ、すぐに行動に移(うつ)されます。
 そのためわざわざ、若い女性が多いメリヤス工場に就職(しゅうしょく)して、寄宿舎(きしゅくしゃ)で有志(ゆうし)を集めてお参(まい)りの会を始められます。

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 そして休みの日には、仲間(なかま)の娘さんたちと大阪の街(まち)に出て仏教(ぶっきょう)唱歌(しょうか)をみずから歌い、その歌の本を道(みち)行(ゆ)く人に売られました。高橋先生が仏教(ぶっきょう)唱歌(しょうか)をたくさんの人に普及(ふきゅう)する運動をしておられたからです。

      つぎの試練(しれん)

 そのうち会社から大へん信頼(しんらい)されるようになると、問題のある娘さんばかり同室に預(あず)けられるようになりましたが、その中で一人だけ、どれだけ言っても直(なお)らない娘さんが現(あらわ)れて、毎日苦しまれることになりました。

 一生懸命(いっしょうけんめい)言っても通(つう)じないという問題は、人間の根本(こんぽん)問題(もんだい)の一つだと思います。私も大学生になったころ、学生運動で殺気(さっき)だっていて、主義(しゅぎ)の違(ちが)う人たちの反目(はんもく)、憎悪(ぞうお)を目(ま)の当(あた)たりにして、なぜ日本語で話し合っても分かり合えないのかと、苦しんだことが思い出されます。

 さて里江さんは、お念仏しながら内省(ないせい)し、ただ一人の人をも救(すく)うことができない自分の力の無さに愛想(あいそ)を尽(つ)かされ、絶望(ぜつぼう)して、退社(たいしゃ)をしてしまわれます。

  別府(べっぷ)の四(し)恩(おん)精舎(しょうじゃ)に

 ちょうどそのころ高橋先生は、全国何千人かの会友(かいゆう)が売りさばいた唱歌集(しょうかしゅう)のお金をもとに、九州別府(べっぷ)の鉄輪(かんなわ)に四恩精舎(しおんしょうじゃ)を建(た)てられました。
 
 何か思い出しませんか? そうですね、祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声…お釈迦(しゃか)さまが阿弥陀(あみだ)経(きょう)をご説法(せっぽう)なさった、インドのお寺の名前そっくりでしょう。あの祇樹(ぎじゅ)給孤独(きっこどく)園(おん)―精舎(しょうじゃ)です。

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 安い経費(けいひ)で泊(と)まれて、体は温泉で治(なお)し、心の悩みは仏教で治(なお)そうという高橋師の若々(わかわか)しい理想(りそう)で建(た)てられた保養(ほよう)施設(しせつ)、ここでは毎日おつとめもご法話(ほうわ)も聞けるはずでした。昭和七年のことです。

 里江さんは、自分の弱い心の修行(しゅぎょう)ができると思って、二十三才の時ここの職員(しょくいん)に入られます。ところが予想(よそう)とちがって現実は他の職員さんたちはみなのんびり、遊(あそ)び半分(はんぶ)のように働いておられたので、せっかくの施設(しせつ)がきちんと運営(うんえい)されていなかったのです。やきもきしたのは里江さんばかり、しかし他人のことにばかり目の行く「自分に」またしても嫌気(いやけ)がさしてしまわれました。

      嫁に行かないか

 そんな行き詰(ゆ づ)まりに悩(なや)んでいるとき、――ここからは手記(しゅき)を読みましょう。
「高橋先生が久(ひさ)しぶりにお立ち寄(よ)りになり、精舎(しょうじゃ)のもう一人の娘さんに『近くのお寺にお話しに行ったら、嫁(よめ)さんの世話(せわ)を頼まれてきた。りっぱな青年で、仏法(ぶっぽう)を喜(よろこ)んでいる人だ。あんた、その人のところへ嫁(よめ)に行かないか。』と言われました。
 
 その娘さんは、『私のような者(もの)でももらって下さる方があるのでしたら…』と承知(しょうち)されたのですが、その青年が目の見えない人であることを聞かされると、『それではいやです』と断(ことわ)られました。それを聞いて、私がその青年にもらっていただきたくなりました。

 私の尊敬(そんけい)する高橋先生や松木(まつき)先生のお話を聞いて念(ねん)仏者(ぶつしゃ)になられたという、その青年に心(こころ)引(ひ)かれたのです。四恩精舎(しおんしょうじゃ)に来(こ)られた松木(まつき)大信(だいしん)先生にお目にかかりました時、『この県内(けんない)に眼の見えない求道者(きゅうどうしゃ)がおられると聞きました。その方(かた)のところへお嫁(よめ)に行きたいと思うのですが…』と申し上げると、先生は『ほほう』と大変驚(おどろ)かれ、乗(の)り気(き)になっておられました。

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『でも私という人間は、教導(きょうどう)して下さるような人でないとだめなのです』と申し上げますと、『目こそ見えないが、あなたを教導(きょうどう)するには十分(じゅうぶん)な人ですよ。』と言われ、その一言(ひとこと)で私の心は決まりました。」(古い雑誌の写真―高橋先生51歳、松木(まつき)先生31歳)

      浄土真宗は求道がいのちです

 求道者(きゅうどうしゃ)ということば、おわかりでしょうか。浄土真宗はかつて後生(ごしょう)の一(いち)大事(だいじ)とか信心(しんじん)獲得(ぎゃくとく)とかいって、じぶんが阿弥陀様のお心に通じるまでけんめいに仏教を探求(たんきゅう)し、信心(しんじん)を求(もと)める苦(く)労(ろう)を尊重(そんちょう)してきた長い歴史と伝統がありましたが、最近はお寺さんも門徒(もんと)さんも、うるさく言いませんね。ただ、お参りすればよい、研修会(けんしゅうかい)にでておればよい、あなた色に輝(かがや)けばよい…などと、甘い、うすっぺらなお説教(せっきょう)が多いのではないでしょうか。

 また、とにかく人が集(あつ)まればよい、まずお寺に来てもらえなくては話にならないとばかり、コーラスだ、演奏会(えんそうかい)だ、落語(らくご)だ…などと、にぎやかな行事(ぎょうじ)がはやりますが、そこに取り上げられる音楽に、深い思索(しさく)に裏付(うらづ)けられた歌詞(かし)が見受(みう)けられないのは、戦後の歌声(うたごえ)運動(うんどう)やフォークソング・ブームなどとなんの変りもありません。これでは僧侶(そうりょ)も門徒もみんな地獄(じごく)に落ちて行くと思います。

      信仰(しんこう)にはいられたお気持ち

 さて、手記(しゅき)にもどりましょう。「それから間もなく昭和8年4月の花祭りの日に、彼は村の人と精舎(しょうじゃ)に入湯(にゅうとう)に来られました。松木(まつき)先生から話して下さり、すっかり打ちとけました。」その青年が児玉正之(こだままさゆき)さんだったのです。

 この5年後、二十七才の正之(まさゆき)さんの感想(かんそう)発表(はっぴょう)が雑誌(ざっし)に残(のこ)っています。

「高橋先生にまる六年お育(そだ)てに預(あず)かります。元来(がんらい)、愚痴(ぐち)な人間です。四才の時に眼を失(うしな)い、十三の年に大分(おおいた)の盲啞(もうあ)学校に入り六年間学び、十九の春卒業しました。もちろん真宗の説教(せっきょう)も聞きましたが、批判的(ひはんてき)に物を見る私は満足(まんぞく)できませんでした。二十二歳の六月、松木(まつき)先生に会い、翌年(よくねん)二月には高橋(たかはし)先生のお話を聞き、如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)の尊(とうと)さを知り、それから信仰(しんこう)に入(はい)るようになりました。

 今もこうして愚痴(ぐち)ではあるが、盲人(もうじん)であるために、信仰(しんこう)に入(はい)ることができたことを思えば嬉しくてなりません。以前(いぜん)はどうかして目を開(あ)けたいと悩みましたが、先生のお話を聞いてから、こんなことは些細(ささい)なことであると知り、ただ今では如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)を信じて細々(ほそぼそ)ながら生活さしていただいております。」(昭和13年4月号『慈悲の国』/1938年)

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 正之さんは、それまでいくらお説教(せっきょう)を聞いてもすなおに聞けなかったのですが、この松木(まつき)先生のお話を聞かれて初めて、真剣に聴聞(ちょうもん)されるようになられたのがよくわかります。じぶんが納得(なっとく)できる「善(ぜん)知識(じしき)」に会えたのです。

      信仰(しんこう)とはどういうことか

 そのとき、松木(まつき)先生からいただかれたお手紙が残されていました。とても考えさせられるすばらしいお礼状(れいじょう)です。味(あじ)わいましょう。「合掌(がっしょう)。正之さん、こんどはありがとう。私は、点字(てんじ)で歌をうたわれた光景(こうけい)を思うとき、何とも言えないおごそかな感じがしました。どうぞよりよく求道(きゅうどう)してください。そして、信仰(しんこう)生活(せいかつ)とはただ法(ほう)の話を聞いたり味(あじ)おうたりするばかりでなく、実は自己(じこ)の生活を生かし切って行くことです。

 法(ほう)を聞き味わうのは楽屋(がくや)です。生活こそ舞台(ぶたい)です。針医(はりい)は針医(はりい)としてあくまで精進(しょうじん)することが、本(ほん)とうの信仰(しんこう)生活です。その精進(しょうじん)に基礎(きそ)を与え、価値(かち)を与えるものが仏法(ぶっぽう)です。お大事(だいじ)に 大信
    児玉正之様」

  このとき松木(まつき)大信師(だいしんし)はわずか三十一歳という若さですが、繊細(せんさい)にして深(ふか)い心を感じさせる、すばらしい文(ぶん)だと思います。

       つまづきから始まった結婚生活

 ところがおふたりの結婚生活はたいへんな〝つまずき〟で始(はじ)まりました。町(まち)外(はず)れに借(か)りた借家(しゃくや)を一足先(ひとあしさき)に掃除(そうじ)に出かけられた里江さんは、入(い)り口(ぐち)の土間(どま)のひとところが窪(くぼ)んでいることに気づかず転(ころ)んでしまい、左足首(あしくび)をくねらしてしまわれたのです。

 熱(ねつ)も出て歩くことも困難(こんなん)なのに、町中(まちなか)まで家庭(かてい)用品(ようひん)を買いに行かなければなりません。しかもご主人に心配かけまいとないしょにして隠(かく)しておかれたものですから、とうとう杖(つえ)なしには一歩も歩けなくなってしまいました。

 この足の故障(こしょう)は一年も二年も直(なお)らないまま、長女の出産(しゅっさん)、町(まち)なかへの引っ越しと、想像(そうぞう)するのも痛々(いたいた)しいご苦労が続いてゆく、お念仏の旅路(たびじ)が始(はじ)まったのでした。

     嫁入りの前に聞かなければ

 のちにその三年後、昭和16年、米びつの底(そこ)をさらうほどの貧(まず)しい生活の中から、高橋先生が自(じ)坊(ぼう)で開かれる大法要(だいほうよう)に家族ぐるみで四国松山(まつやま)まで参加(さんか)されたときの、里江さんの感想(かんそう)発表(はっぴょう)を聞いて、今日のまとめとさせてもらいましょう。

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 「十九の時から高橋先生のお育(そだ)てを受けてまいりました。年長(ねんちょう)のお友達(ともだち)が嫁(よめ)入(い)りして、みな苦悩(くのう)に泣(な)いているさまを見るにつけて、嫁(よめ)入(い)り前に仏法(ぶっぽう)を聞かねばと思い、美しい着物などのことは考えず、ただ心のハッキリすることに一心(いっしん)になってまいりました。

 嫁(よめ)入(い)りするときは、良人(おっと)を信仰(しんこう)に引(ひ)き入(い)れようくらいのつもりでありましたが、結婚してみると、何もかも私こそ導(みちび)いていただくような、尊(とうと)い夫(おっと)であることを知り、今も主人に導(みちび)かれています。ずいぶん色々な苦労(くろう)もしてまいりましたけれども、その人生(じんせい)苦(く)に突(つ)き当(あた)るたびごとに、念仏の尊(とうと)さを知らされています。このたびも一家四人づれで参らしていただいて、こんなうれしいことはありません。」――これが三十一歳の里江さんでした。

 この後(あと)、お若い時分(じぶん)からカリエスという難病(なんびょう)に苦しまれ、五十代で大手術を受(う)けて奇跡的(きせきてき)に退院(たいいん)、それ以後(いご)は大きなコルセットを外(はず)せないというお身体(からだ)を、つねにいたわりながら、はるばる浄勝寺(じょうしょうじ)まで三度も来てくださって、たくさんの仏教(ぶっきょう)唱歌(しょうか)を教(おし)えてくださったのは、なぜだったのだろうか――と、このごろしきりに考えるのです。今回は長いおはなしをいたしました。

 次回は里江さんが、にちよう学校の子どもに向かって書かれたお便(たよ)りをご紹介(しょうかい)したいと思います。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。【平成二十七年十二月十五日 浄勝寺住職・村上敏喜拝記】

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平成28年度の 宗祖報恩講

 あたたかい天候にめぐまれつつ、ホオンコさんがつとまりました。本年は初めて、試験的に?おとりもちを一日短縮して実行しました。たいへんな気づかいで、執行部役員は馬力を見せてくださいました。

改 おとりもち昼食 RIMG3764_convert_20160118204914

 1月13日が準備日、おとりもちの日でした。37人の方がいっしょにお昼をよばれました。お勝手係が食事の用意をされるのです。メニューは坊守が作ります。

改 ヒジキの下ごしらえ RIMG3773_convert_20160119174329

  午後からも庫裡のお座敷の掃除、お勝手ではおときの什器(じゅうき)そろえ、また長ヒジキの準備、ひやかしなど、2時近くまで作業がありました。

改 夜のお華束 RIMG3785_convert_20160118204941

 お華束を夜に組んだのは初めてでした。5時過ぎから9時すぎまでかかって13台のお華束を盛りました。ちょっと無理があります。

改 山門 DSCF1138_convert_20160118205842

 お寺の門を山門(さんもん)といいます。幕も張られ、旗も立てられます。

改 字入り 御絵伝 RIMG3792_convert_20160118205609

 御開山(ごかいさん)は親鸞聖人のことです。仏さまに向かって左側を南余間といいます。しんらんさまのご一生を絵でつづった、御絵伝四幅を奉懸します。報恩講のみどころですから、お仏花は住職が立てました

改 御開山前のおそなえ RIMG3797_convert_20160118205633

 お内陣の向かって右側は宗祖の親鸞聖人のお座所です。付け菓子、おけぞく、お仏花でていねいに荘厳されます。

改 正面のおけぞく RIMG3800_convert_20160118205709

 如来様の左右のおそなえです。苦心のおけぞく盛りの結果です。付けがしと算木盛りも用意しなければなりません。

改 報恩講初日 正面 RIMG3795_convert_20160118205531

 1月14日午後から報恩講が始まりました。

改 住職法話す 16-01-14_photo_convert_20160118211718

 初日は午後から法要開始です。ついに住職(わたし)みずから、法話いたしました。
 見にくいでしょうが、「宗祖」と板書してあります。先祖は身体の親ですが、「心の親」、宗祖を持たなければ、人間はみんな、地獄に落ちて行くだけですーというところから話しました。この導入はその日の朝、寝ながら考えたのです。
 ものすごく集中したため、前席が一時間15分くらいとなったようです。迷惑をおかけしました。自分ではまったくわかりませんでした。
 スマートフォンで娘に写真を写してもらえました。(みなさん、ありがたいですね? )思わず知らず、身が乗り出していましたね。

改 おなます作り RIMG3802_convert_20160118205735

 お台所では、翌日のために着々と仕事が進んでいるのです。

改 おぜんの準備 RIMG3803_convert_20160118205919

 これは15日のおとき日です。おときが始まると、次々にすばやくお膳を出さなければなりません。いちばん奥のマスクの方がおられる一角が、うちの食事場所です。ものすごく狭い板の間で、大正時代からそのままです。イスが使えないスペースです。

改 人影消し おときの場所 DSCF1150_convert_20160118210118

 庫裡のお座敷。ご門徒のおときがほぼ済んで、ようやく住職や講師の先生が席についたところです。原則として男性の御給仕です。

改 合成 おとき日 説教 DSCF1144_convert_20160118205957

 秦先生のお説教です。50枚のレジメ・プリントを用意して配っていただきましたが、足りませんでした。あわてて10枚ほどコピーしました。うれしいことでした。
 手前に見える法衣すがたは、住職ではありません。念のため。お勤めに来てくださった神戸町のお寺さんです。

改 Trim+泓泰巌師 DSCF1153_convert_20160118211132

 最終日1月16日のお説教。大垣の泓泰巌(ふちたいがん)先生はおひげを伸ばされました。お孫さんを連れての御参詣もうれしい光景です。このSくんには、手品の時間に出演してもらいました。

改 おけぞくの配布 RIMG3812_convert_20160118210821

 16日も午前が終わると、おけぞくを下げて、一軒も残らず 全ご門徒さんに配布するべく、地区役員のみなさんが袋詰めに取りかからなければなりません。なかなか大変なんです。
 おもちつきに始まって、おもち配りに終るという、報恩講でした。




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あけまして、おめでたく、新年の修正会

 修正会(しゅしょうえ)、といいますが、お正月の朝のおつとめを3日間いたしました。元旦は朝7時半から、2,3日は朝8時からです。毎日、お参りの顔ぶれが変わり、ムードもとりどりでした。
 元旦のお参りは新しい役員さん夫妻も参加されてうれしかったです。長男も1,2日と出てくれて、心強かったです。
 今年から、『現世利益和讃』のテキスト(譜)を新たに作り、取り替えました。読みやすくなったと思います。
 江戸時代から日本各地の寺院で、お正月のおつとめとして読まれてきた、このゲンゼリヤク・ワサン ですが、現在ではほとんどのお寺で勤まらなくなっています。なんとか私たちで真宗の伝統を存続させましょう!みなさん、習いに来てください! 毎月いちど、夜にけいこの会を開いています。
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 ことしは年末に総代さんたちが「おけぞく」(お華束:小さいお餅の積み上げ)を2基 作られましたので、御鏡餅のかわりにお供えしました。暖冬のせいでしょうか、ついたお餅がなかなか固まらなくて、組むのに苦労されました。
 3日目のおつとめが済んだあと、参詣者のみなさんでこわしてバラバラにしてもらって、全員で分けあいました。

改 お供え RIMG3727_convert_20160102203646

 本堂のお仏花は31日に住職が立てました。うちにある花材で、わがまま流ですが…。まず如来様のまえ。

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 次は御開山の前。

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3杯目は、蓮如様の前です。

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