易往山 浄勝寺ブログ

岐阜県 揖斐郡 大野町にある、浄土真宗 本願寺派のお寺「浄勝寺」の紹介です。

人間に生まれることも、仏教に遭うことも、難しいのです

改 平成29年1月法語 DSCF1253_convert_20170124100827

 報恩講といえば昔は、お寺では『御伝鈔』 上と下 のぜんぶを聞き、いかにも いかめしい『報恩講私記』(かんたんに式文:しきもん、という)の独吟に耳をさらし、というプログラムが必須でした。
 わたし自身、すでに儀式としての式文は拝聴した記憶さえ、ありません。
 それでも報恩講のお説教では、今も布教の専門家の多くはこの 式文 の一部を冒頭の法語として、朗々と上げられます。いつ聞いてもカッコいいです。本年の若い先生の布教(16日)も、それでした。

「弟子四禅(でししぜん)の糸スジの端(はし)に、たまたま
南浮人身(なんぶにんじん)の針をつらぬき、広海の浪のうえに、まれに西土(さいど:インド)仏教の浮き木に遭(あ)えり。ここに祖師聖人の化導(けどう)によりて、
――以下略」

 なんとか読めるでしょうか。 ものすごい格調でしょう? 声に出して読んでみてください、きっとあなたも立派なお説教が口から出てくるような、そういう自信が、わけもなく湧いてくる文章ですよ。よむコツは、「、」で1拍、ちゃんと区切ることです。訳してみましょう。

 流転の世界から抜け出よう、抜け出ようとして、お釈迦様の教えを聞いて努力、精進して、糸のように長い長い命をつむいで、あなたはこの世の果てよりもっと高い天の果てから糸を垂らし、地上で受ける針の穴に、ようもようもその糸を通せたというくらいの確率で、やっとこの人間世界に出られたのですよ。

 またさらに少ない確率の喩えになるのですが、その人間という稀れな生をうけたとしても、仏教に出会える人はほんの少しなのです。
 それは広い太洋にプカプカ浮いている丸太にちょっとした穴が開いていたとして、たまたま目の見えないカメであるあなたが海底から浮き上がってきたとき、いったい大海の中のその一本の丸太に当たるものだろうか、しかもその小さな穴に首を突っ込んでしまうなどということが、あり得るだろうか? 

 あなたが西方より届いた人間文化の華である仏教というものに出会ったというのは、それくらいのあり得ない確率なんですよと、お釈迦様はお経の中でおっしゃっておられます。盲亀浮木(もうきふぼく)の譬(たと)えといいます。
 さてこうしてようやく人間に生まれ出た私たちが、今度は親鸞聖人という、仏教のいちばん深い所まで降りて行かれた人物の、熱い熱いご親切のおかげで、有難いことに…以下略」

――というメッセージが、『報恩講私記』冒頭の主旨なんです。

【訂正】 盲亀浮木(もうきふぼく)の譬(たと)え――は経典では 「人間という命をもらうことの少ない確率」 として使われていますが、ここで覚如上人(報恩講私記の著者)は 「ほんとうの仏教に出会える確率」 として使っておられます。訂正いたします。 { 2月 9日 }

 で、これをわかりやすく表現しますと、今月の法語のようになるのではないでしょうか。遠くに見える池田山が寒そうですね。なんまんだぶ、なんまんだぶつ…。

 
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