易往山 浄勝寺ブログ

岐阜県 揖斐郡 大野町にある、浄土真宗 本願寺派のお寺「浄勝寺」の紹介です。

苦しみの火で心をきよめられた身の二人


● 『谷間の百合』 オノレ・ド・バルザック 新潮社刊


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 1835年に書かれたということは、『日本史年表』を開けば、まだまだ江戸時代の最終後期、ついその2年前には大塩平八郎の乱があり、安藤広重が東海道五十三次を完成させたころ。この地美濃大垣が大地震に襲われた時代だそうです。
 そうか、200年近くも前の小説なのか…。

 わたしの中学生のころは学習研究社が「中一コース」、旺文社が「中一時代」という、おとなしい学習雑誌を競って出していた時代で、内容は勉強というよりほとんどが教養。オマケには小さな文庫本のような別冊付録が付いていて、それで有名な古典的推理小説や世界的恋愛小説を書き直し(ダイジェスト)で読んで楽しんだものでした。
 なつかしい、とてもささやかな楽しみでした。

 そんな付録で「ポールとヴィルジニ―」という相思相愛の恋愛小説を読んだくらいで、恋愛小説とは無縁な中・高生でした。いや、大学に入るまでずっと、かたくなにスウェーデンの女性作家: A・リンドグレーン が書いた少年物だけを繰り返し読んでいた大・オクテ読者だったのです。

 この『谷間の百合』のことは題名だけ知っていても内容については何も知らない私でしたが、なんとなく美しい、激しい恋の小説だろうと、恐らくみなさんと同じように予測していました。
 もうわたしの余命が少なくなってきたので、小説には手を出さないことにしているのですが、ムスメの一人から誕生日にこれを送られてしまいました。ご縁かと思い、恋愛小説ならラクに読めるだろうと安易に考え、ふらっと読み始めたのが運のつきでした。

 それというのは、――

 フェリックス青年が22歳、アンリエット(モルソフ夫人)が28歳のとき出会ってしまうのですが、この息づまる恋、清らかな苦しみと甘美に満ち満ちた、恐ろしい恋が、いつまでも、どこまでも苦しく続くではありませんか! 
 100ページ読んでも、200ページ読んでも、二人の状況は変わりません。私は思わず何回も (ウソだろう…)とつぶやいてしまいました。
 そうです、480ページ、文庫で言えば2センチの厚さ、ふつうの文庫2冊ぶんくらいは、じっと我慢して読み続けなければ、現代人の期待するドラマは出現しないのでした。

 このへんでフェリックスは行動に出るか? このあたりでさすがのアンリエットも甘える姿をみせるのか?――そのように一瞬たりとも思うことじたいが、現代人のわたしの(そして、あなたの)罪深さでありました。神父さま、申しわけありません。

 しかし時代が違うとはいえ、カトリックの教えの強固(鞏固:きょうこ)さにはすごいものがあります。ある意味、カソリック賛美の小説です。
 バルザックは、ものすごく深いところから、カトリックの伝統を味わっていました。

 「ローマ教会のつくりだした、掟の厳格な遵守(じゅんしゅ)こそ、それ自体がまことに偉大な思想であり、希望と恐れとを忘れさせぬ行為を日々われわれにくりかえさせて、心のひだ奥深く、義務の観念を刻みつけてくれるのです。このようにしてうがたれた心の河床を、感情は常に生き生きと流れつづけるのです。(第2章のおわり。354ページ)」

 むつかしい…三回読んでもボォッとなるほど、難解ですね。思い切って受けとめてみれば、仏教でいえば禅宗の流儀に近い話なのでしょうか。とすれば、浄土真宗ではなにが心の河床となるのでしょうか。宿題をもらってしまいました。

 それにしても、なぜ480ページもの部分があやしくも清らかな愛情を精密描写してあったのだろうかという不審は晴れませんでしたが、530ページまで進むと、そこにちゃんと明示してあったのでした。バルザックって研究論文みたいな頭脳で小説を書くのか!と魂消(たまげ)ました。引用しますよ――

「… あの悲しい結末につづく出来事を、お話いたさねばなりません。が、それには、言葉はほんのわずかで足りましょう。行為と活動の織りなす生活では、すべてを語りつくすのに、それほどの手間はいらないのです。それに反して、魂の最も高い領域でくりひろげられた生活は、そのすべてを物語るのに、はかり知れないほどの言葉を要するのです。…」

 すばらしい見識だとおもいました。おもわずお念仏が出てしまいませんか? ナンマンダブ、ナンマンダブ…。名作たるゆえんですね。

 
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