易往山 浄勝寺ブログ

岐阜県 揖斐郡 大野町にある、浄土真宗 本願寺派のお寺「浄勝寺」の紹介です。

寺報 №167 最高の手向けは

平成30年春彼岸寺報 表紙 _DSCF2818_convert_20180320194813_convert_20180320202047

   題字下 
【住 職 法 話】最高の手向け(たむけ)
  歴史によって洗練(せんれん)された儀式 
                     
 お葬式(そうしき)というのは、お寺さんがするのだと多(おお)くの人は思っておられるでしょうが、じつは昔(むかし)から、その地区(ちく)の人たちの習慣(しゅうかん)と先例(せんれい)に沿って、僧侶(そうりょ)も長老(ちょうろう)たちも淡々(たんたん)と行(おこな)ってきただけのものなのです。

 淡々(たんたん)と意味(いみ)がわからず行(おこな)なっても、その土地の人々の結(むす)びつきという目に見えないものが基盤(きばん)であるいじょう、お葬式(そうしき)は死者のタマシイを安心させ、送るちからを持っていたように思います。

 ところがある時からホールで、サービス業者(ぎょうしゃ)主導(しゅどう)で行(おこな)われるようになって、これ見よがしなイベント化(か)し始めた時、私は「喪主(もしゅ)も会葬者(かいそうしゃ)も僧侶(そうりょ)も、全員(ぜんいん)が葬儀(そうぎ)の深い意味を理解(りかい)しないと、お葬式(そうしき)という儀式(ぎしき)が意味をなさないようになった」ことに気が付きました。
 そして今つくづく思うのですが、お葬式(そうしき)とは、われわれ日本民族(みんぞく)の長い歴史と智慧(ちえ)の集約(しゅうやく)された、洗練(せんれん)された儀式(ぎしき)だということです。

 タマシイを感じとる力が大前提(だいぜんてい)です   
                   
 日本に仏教が入ってくる前から、おそらくその千年以上前から、ちゃんとお葬式(そうしき)は行(おこな)われてきたはずで、仏教やお坊さんが決めたというものではありません。
 その原点(げんてん)は、亡(な)くなった人にはタマシイというものがあるはずだということです。タマシイというのは、その人のホンネのようなものと思ってください。

 たとえば生前(せいぜん)に、「わしが死んでも、簡単(かんたん)に済(す)ませてくれればいいよ。」と言われていたとしても、たいがいの場合それは遠慮(えんりょ)であり、息子たちに対する気遣(きづか)い、またはやけっぱちでしょう。

 枕経(まくらぎょう)はぜひともご自宅で

 タマシイの気持を想像(そうぞう)しながら、三日にわたるお葬式(そうしき)の流れを見て行(い)きましょう。
 お寺に訃報(ふほう)が届(とど)きますと、枕(まくら)経(ぎょう)に出向(でむ)きます。元気に生きているうちはあまり先のことも考えなかったかもしれませんが、いざこの世から去(さ)ってゆくとなると、タマシイが頼(たよ)りに思うのは、なんといっても仏(ほとけ)様(さま)でしょう。このときのタマシイの安心感(あんしんかん)を確保(かくほ)するおつとめです。

 ですから江戸時代(えどじだい)には、亡(な)くなるまぎわに家族に助け起こしてもらって、お内仏(ないぶつ)(仏壇)に向(むか)ってお経(きょう)を上げたそうです。今でも正式には臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)といいますが、現代(げんだい)ではたいてい、本人の枕(まくら)元(もと)で本人の代(か)わりにお寺さんがお経(きょう)を上げるため、わかりやすく枕(まくら)経(ぎょう)といっています。

 私は「せめて枕(まくら)経(ぎょう)だけは、ご自宅(じたく)でお参りしてください。病院からいちどは、ご自宅(じたく)に入れてあげてください。」と、お願いしています。本人のタマシイになり代(か)わって。

 タマシイが喜ばれるお通夜は        
              
 お通夜(つや)は、身内(みうち)の者がそのタマシイに寄(よ)り添(そ)って、お葬式(そうしき)当日(とうじつ)までをいっしょに過(す)ごす夜です。親しい者だけで、和(なご)やかに食べたり飲んだりしながら、ゆったり過ごすのが本来(ほんらい)です。とくに「家(か)族(ぞく)葬(そう)」の場合は、ご自宅(じたく)でお通夜(つや)をなさるのが、タマシイがいちばん喜(よろこ)ばれると思います。

 特別な儀式(ぎしき)の決まりはありません。わたしの住む大野町(おおのちょう)あたりでは、昔から近所の門徒(もんと)たちだけでお正信偈(しょうしんげ)を上げることになっており、お寺さんは呼(よ)ばれませんでした。

 亡(な)き人に着せるのは、白装束(しろしょうぞく)です   
                   
 さて、お葬式(そうしき)です。生前中(せいぜんちゅう)に御本山(ごほんざん)で法名(ほうみょう)を受けておられない場合には、お葬式(そうしき)開始前(かいしまえ)に「おカミソリ」という儀式(ぎしき)もしなければなりません。

 「私は仏さまのお弟子になります、仏様の国に行(い)きたいです。」という意思(いし)表明(ひょうめい)です。カミソリで頭髪(かみのけ)を剃(そ)るマネをしてから、法名(ほうみょう)を授(さず)けてもらい、仏様のお弟子(でし)、出家(しゅっけ)の形をとるわけです。

 故人(こじん)はもうこのときには、お棺(かん)の中に安置(あんち)されています。着せる物は、もちろん白い装束(しょうぞく)です。
 白木(しらき)のお棺(かん)の上からは、お導師(どうし)と同じような七条(しちじょう)袈裟(げさ)、もしくは棺(かん)おおいという、きらびやかな布(ぬの)が掛(か)けてあるでしょう。これを見よ、わたしは仏様である、という、服装(ふくそう)での表現です。

 お葬式(そうしき)のはじめには出棺勤行(しゅっかんごんぎょう)というお経(きょう)を上げます。まだ自宅(じたく)にいるご本人(タマシイ)に「もう、いよいよ家(いえ)から出てもらうよ。ここにはおれないよ。」と念(ねん)を押(お)すのです。

 葬式の花は生花は添(そ)えもの、紙花(しか)が重要です

 これでお導師(どうし)、棺(かん)おおいを着(き)た新仏(あらぼとけ)、向こうには阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)さまと、仏さま三体(さんたい)がそろったとして、いよいよお葬式(そうしき)のおつとめ(葬場(そうじょう)勤行(ごんぎょう))が始まります。

 荘厳(しょうごん)は、五(ご)具足(ぐそく)。お花は紙(し)花(か)すなわち白(または銀)の紙(かみ)で作った花です。
 これは、お釈迦(しゃか)さまが森の中で亡(な)くなられたとき、あらゆる動物たちが集まって来て、まわりで泣(な)いたそうですが、しかし森の樹木(じゅもく)たちは泣(な)くこともできず、悲しみのあまり水を吸(す)うのを止(や)めたため、お葬式(そうしき)のときにはまっ白な葉を付けて枯(か)れていたという美しいお話が、お経(きょう)になって伝(つた)えられているからです。
 生き物はお互(たが)いに何に生れてくるかわからないどうしだから、無益(むえき)な殺生(せっしょう)はしてならないと説(と)かれた、お釈迦(しゃか)さまならばこそ、の光景(こうけい)でしょう。 

 昔の日本人が、紙(かみ)の花をお葬式(そうしき)の花と決めたのは、すばらしい智慧(ちえ)だと思いませんか。これならお金がない人でも、花のない季節でも、年中、どこの家(いえ)でも、平等(びょうどう)な、正式(せいしき)の飾(かざ)りでお葬式(そうしき)が出せるからです。

 故人(こじん)のいちばん喜ぶ手向けとは

 お葬式(そうしき)を近所や故人(こじん)の知人(ちじん)に知らせずに、小さく行(おこな)いたいと言われるかたも多いですね。私たちは家(か)族(ぞく)として故人(こじん)のことはよく知っていると思いがちですが、必ずしもそうばかりではありません。かえって同級生や、ご近所のおなじみさんのほうが本人(ほんにん)の別(べつ)の面(めん)をよくご存(ぞん)じという場合も多いのです。

 お葬式(そうしき)に来てくださった会葬者(かいそうしゃ)は、声には出されませんが、おひとりおひとり心の中できっと故人(こじん)と対話(たいわ)をしたり、思い出を味わっておられるはずです。

 ですから会場(かいじょう)にはおひとりおひとりの想(おも)い、イメージが渦巻(うずま)いて、祭りのようににぎわっています。ほんとうにこれこそ、故人(こじん)に対する最高(さいこう)の手向(たむ)け(お供(そな)え物)ではないでしょうか。タマシイが喜ばれるのは、この会葬者(かいそうしゃ)たちのホンネ、胸(むね)の内の声ではないでしょうか。

 お葬式(そうしき)という儀式(ぎしき)は、死者(ししゃ)のタマシイと会葬者(かいそうしゃ)のタマシイが交流(こうりゅう)する、すばらしい儀式(ぎしき)だと思います。これを小(こ)ざかしくイベント化したら、故人(こじん)の一生が空(むな)しく終わることになるでしょう。

 喪主(もしゅ)は悲しくてしゃべれない、という態度がいいのです       

 お葬式(そうしき)とは、ひとことで言うと、喪主(もしゅ)たちが悲(かな)しくて、泣(な)けてしかたがないのを、タマシイが高いところから満(まん)足(ぞく)して見ているという構図(こうず)でもあります。

 ですから最後(さいご)の喪主(もしゅ)挨拶(あいさつ)は親戚(しんせき)のものに述(の)べてもらって、その横にうなだれて立っているのが美しい形です。
喪主(もしゅ)自身(じしん)がトチリもせず平気(へいき)な顔をして謝辞(しゃじ)を述べるから、どのお葬式(そうしき)も興(きょう)ざめになるのです。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
【平成三十年三月十四日 浄勝寺住職・村上敏喜 拝記】



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